公開日 2021年5月9日 最終更新日 2023年12月27日
ドイツに来て生活していると、自分が「受け身」であることに気が付きます。というのも私もこちらへ来た当時語学を習得するために語学学校に通った時、私の受け身の姿勢が浮き彫りになりました。
間違ったら恥ずかしいな・・・自信のあるものだけ手をあげよう。当てられるまで黙っておこう。という姿勢に対して、周りのロシア人は間違ってもバンバンと発言していました。
もちろん日本人が受け身、と一概には言えません。日本人の中にも良い意味で周りの意見を気にしない、堂々と間違いを認められる人も中にはいます。何事もすべて国籍で識別することはできませんが、この記事では決めつけではなく、「日本人ってこういう傾向があるよね」というゆるい感じで自分なりに分析したことをまとめています。
もくじ
ディスカッションをすること
タイトルにもあるように、ディスカッション(討論)をすることは、あなたの日常の中でどのくらいありますか?友人と何かについて意見交換をすることもまたディスカッションと呼べます。
「ディスカッション」は「討論」と訳されますが、同じく「討論」と訳される「ディベート」に比べると意見交換という意味合いが強く、ニュアンスが異なる言葉です。(引用:「ディスカッション」の意味とは?ディベートとの違いや進め方も)
ディベート(討論会)といえば最近で言うと、アメリカ大統領選挙前に話題になりましたよね。日本でも大阪都市構想の時、賛成・反対派の意見を持った政治家がディベート(討論会)を繰り広げていました。
「ディベート」には「討論・論争」という意味がありますが、単なる意見交換ではなく相手を論破するという意味合いが含まれています。
ディスカッションの印象と気を付けたいこと
討論というと相手に刃向かうみたいで穏やかじゃないなあ・・・という印象はありませんか?もちろん討論の中でも、自分と違う意見を聞こうともせず、大声を張り上げて相手を威嚇するような話し方をすれば荒れるのは明らかです。
つまりディスカッションは意見交換であって、自分の意見を押し付けずに相手の意見も聞いて物事を判断したりすることです。自分の話し方に気を配るリスペクトが必要になってきます。(熱くなるとこれが難しい)
ディスカッションの良いところ
自分の知らないことや、反対意見を聞くことは自分の生活をより有意義にするためにも必要不可欠ではありませんか?
十人十色という言葉があるように、自分と全く考え方が同じ人間というのは存在しません。情報はいくらでも集められるご時世ですが、それを処理したり分別する形は人それぞれです。
自分の知らない情報を得ることができる可能性もあり、同じものを集めたとしても捉え方が違えば違う視点で物事を見れるようになるかもしれません、相手のことをより良く知る上でも「こんな考えをする人なんだ」と新しい発見があるかもしれません。
日本人が思うままに意見をできない理由
私が考えるに、日本人がなんでディスカッションが嫌いなのかということは、思うままに意見できない環境にあった、あるいはあることにあると思います。
間違うことは決して恥ずかしい事ではない
初めてのディスカッションは学校の道徳の授業ではないでしょうか?といっても私はほぼ記憶にありません。発言した記憶なんてものはもっとありません。
そもそも全ての授業において、自分の意見を主張するような科目は無いに等しいのではないでしょうか?発言できたとしても、それは先生に当てられたあとのこと。ドイツでは、先生がたずねなくとも手をあげて発言できるような環境があります。
間違えると恥をかくという考えは、「わかったフリ」をすることにもつながるとても危険なことです。外国人に話しかけられて分からなかったときに、笑ってうなずく様子をみたことはありませんか?
知らないことを知らないと言えば学ぶことはできますが、分かったフリをすることで分からないことは増えていきます。
リスペクト
先生という存在も日本ではまた特別な存在になってしまっていますよね。学校では先生が質問したことだけに答えたり、自分発信は少ない受け身の姿勢が目立ちます。目上の人の意見に逆らわないのが当たり前になっている社会の風潮もまた然りです。
目上の人に意見しない理由はなんでしょうか?
答えられないほど追求しない
受け身の姿勢は主に学校教育で植え付けられたものだと私は考えます。
今20代以上の方で、小中高で学んだ教科の中で1つでも記憶に残る、何を聞かれても答えることのできる科目というのはありますか?
定期試験に向けてとにかく記憶して学んだものは頭に残りにくく、興味を持ってたくさん質問をしたり、なんで?と考えたり熱心に取り組んだからこそ記憶に残りやすいものです。
実技でも勝手にできてしまうことだと疑問にもたず、できないからこそ先生にどうしたらできるのか質問してできるようになったことは記憶に残っていることはありませんか?
ほとんどのことは試験のためにしか勉強せず、相手に自分の意見を聞かれたとしてもまず知識に乏しいのでそれに答えることもできません。
実は日本に限ったことではない
実はディスカッションが嫌いなのは日本に限ったことではなく、中国・韓国などのアジア人に当てはまることなのではないかと考えます。これらの国々の人と話すとき、前にも述べた「わかったフリ」をする光景を何度も見てきました。
それに限らず、自分の国のことを悪く言われたり、問題になっていることを疑問に持たれることに対して、話をそらしたり、そのことは話したくないとシャットダウンしたり、いざ話すことができても自分にとって良い物しか聞かなかったりとディスカッションするのがとても難しい、という経験はありませんか?
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なんで?と疑問を持つこと
何も考えずに周りに同調するように、足並みをそろえることは本当に危険です。自分が簡単に流される・コントロールされてしまうということです。
これは当人は何も考えずに周りに流されるように生きればいいだけなので実はとても楽なんです。
逆に珍しい意見を持って主張することや、ディスカッションをするには知識を集めなければいけません。その理由を追究する時間や労力が必要でとても大変です。
それでもやはり違う意見を持った人とディスカッション・意見交換することは誰かにコントロールされてしまわない為にも必要不可欠だと考えます。